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原作者・清宮零インタビュー
【聞き手】小沼雄一(監督)

──生まれはどちらですか?

埼玉県の北足立郡蕨(わらび)町というところで昭和三年に生まれました。今の蕨市です。兄弟6人ですけど、もう生きてるのは三人だけですね。私は上から3番目の次男でしたが、長男はすぐに死んでしまいました。当時海軍では、長男を特攻隊にはしなかったんですけど、私は戸籍上次男だったので特攻隊に入れられました。

──長男だと特攻隊にはなれないんですか?

長男で二十歳前だと特攻隊には入隊させないんです。海軍の規定ですね。私は16歳で海軍に入りましてね、17歳で終戦です。土浦の霞ヶ浦航空隊でね、訓練に訓練を重ねてただけなんですよ。だから、グライダーには乗りましたけど、飛行機には乗ったことないんです。飛行場に置いてあるゼロ戦には乗りましたけど、操縦はさせてもらえなかった。今考えるとそれが幸いした。あと一、二年早ければ確実に行ってましたね。

──入隊する前の少年時代は?

小学生の頃は東長崎(※現在の東京都豊島区)に住んでいました。母親が9歳で死んでしまったこともあって、年中一人で遊んでました。当時は石神井川の周りに田んぼが広がっていて、トンボを捕ったり、カエルやヘビを捕まえたりしてましたね。オニヤンマっているんですけど、それが上空にいて、ブーンと降りてきて川に入るんですね。そして、小さなえさを食べて……それが羨ましくてね。オニヤンマとか、ギンヤンマとか、シオカラトンボとか、そういうのが好きでしたね。今思えば、空への憧れの第一歩でした。

──海軍に志願した経緯は?

中学の時、浦和の親戚に預けられたことがあって、(旧制)中学4年の途中で志願しました。小さい時から飛行機に乗りたかったから。陸軍の飛行学校も受けたんですけどそっちは落ちちゃって、海軍の予科練には受かったんです。

──どんな試験でしたか?

学科試験と……身体検査が一番難しかったね。視力とか聴力とか、飛行機に乗ることを前提にした試験で、非常に厳しいんですね。それに合格して、入ったのが1944年の5月です。それから兵舎に入りまして、軍艦の中と同じようにハンモックに寝ます。起床ラッパが鳴って、五分以内にハンモックを畳んで入れて、顔洗って、歯を磨いて、それで兵舎の前に座って、十五分で練兵場まで行くんです。そこでまた体操して……。ハンモックってのはすごく重くてね。縛って丸めて担げるようになるまでに三ヶ月かかりますよ。

──一連の動作を素早くやらなければいけないわけですね。

ちょっとでも遅れると、バッター(精神注入棒)です。こんな太いヤツでね、ずいぶん殴られたもんですよ。

──どこを殴られるんですか?

お尻。殴られて死んだ人もいるんですよ。だけど病気で死んだことになっちゃうんだ。バッターやられて死んだなんてことになったら、大変なことになるからね。それこそ軍の最高機密です(笑)。

──予科練では他にどんなことを?

土空(つちくう/土浦海軍航空隊)から土浦の駅まで四、五キロありますかね。往復で駆け足やるんです。それを班ごとに競争するんですよ。一人でも遅れると、二人か三人でそいつを担いで行くんです。連帯責任だから。ビリだったら、その日は夕飯が食えない。それで全員バッターですよ。分隊長もそれを承知の上でやるんです。海軍魂を養成するためにね。学科もやりますよ。世界地図だとかね。あと世界の歴史、日本の歴史、政治経済……国語もやりましたし、算数もやった。一番厳しいのは戦陣訓ですね。一つ軍人は、何々すべしとか、あるんですよ。それを全部暗記させられました。徹底的に軍人としての精神をたたき込むんですね。

──予科練は何年間?

本来は3年やって霞ヶ浦航空隊や長崎航空隊などに配属されるんですが、終戦間際だったのでそこまで行かなかったんですね。私は夢破れてゼロ戦には乗れなかったんです。訓練で乗ったのはグライダーだけ。グライダーの先端に付いた太いゴムを、十五、六人で200メートルぐらい走って引っ張って飛ばすんです。それが気持ちいいんですよ。生まれて初めて飛んだ時はね。霞ヶ浦が眼下に見えました。あとは、模型で操縦の練習をしましたね。

──当時、太平洋戦争の戦況についてはどのぐらい知っていたんですか?

全く知りませんでした。予科練ではね。それどころじゃないですよ。ましてや、日本が負けるとは全く思ってなかった。その後、特攻隊に入れられて、横須賀の通信隊に入りました。今の日産の追浜工場が飛行場だったんですが、追浜の航空隊で訓練してました。1945年の3月頃からですね。そこではジェット機の試験飛行してましたね。私は見学しただけですけど、3機ぐらい落ちたのを見てます。他に特殊潜航艇なんかも見ましたね。これも特攻のためです。だから、戦局が厳しいんだろうとなんとなく肌では感じてました。最後は戦闘機もベニヤ板使ってましたから。極秘でしたけど。

──やはり、いずれ戦争で死ぬと考えていたのですか?

“死は鴻毛より軽し”ですから。オヤジも、お国のために死んでこいって言ってました。みんな洗脳されてるからね。日本は神国だと。必ず勝つと。信じてましたよ。今考えると、神風なんか信じてよく戦ったよなあと思うね。

──特攻隊は志願ですか?

形だけはね。志願です。希望しない人もいたんですけど、ほとんど参加しましたね。一歩前にって言われた時に、あいつも前出た、あいつも出たとなれば、自分も出ないわけに行かない。だいたい特攻隊って頭の中ではわかったつもりでいても、実際にどういうものかなんて知らなかったですからね。17歳ですから。特攻隊と決まったあとは、お腹にダイナマイトを巻いて、B29に突っ込むみたいなことを訓練してました。

──実際に特攻作戦に参加したのは?

横須賀の衣笠って駅をね、8月14日の夕方、四百人以上が鎧戸を下ろした秘密列車に乗って出発したんです。北海道の千歳航空隊へ向かって。千歳から大型の飛行機に乗って、千葉の館山で給油してから、ゼロ戦の護衛とともにサイパンに向かうことになってました。サイパンに強制着陸してB29を叩くための特攻作戦ですね。そのために腹にダイナマイトを巻いて訓練してたわけです。地上のB29にダイナマイトを投げつけて、それからダイナマイトもろとも駆け足で突撃すると。今考えるとおもちゃの戦争みたいな作戦ですがね。

──もう日本に戻ることはないと……

もちろんわかってました。ただ、悲壮感はなかったですね。はじめからそのつもりでしたから。朝、目が覚めたので鎧戸を開けて窓の外を覗いたら、山手線の目白駅だったのを覚えてます。それからまた列車が動き出して、正午過ぎに常磐線の水戸駅に着きました。喉が渇いたのでホームの水飲み場に行って水筒に水を入れていたんですね。そうしたらおばあさんがやってきて「兵隊さん、もう戦争は終わったんだとよ。もう戦争行かなくていいんだと」って言ったんですよ。ビックリしましたね。私は信じられなかったです。列車に戻って、いまおばあちゃんがこう言ってたんだけどどうなんだっていったら、そんなのばあさんの寝言だろう、夢見てんだなんて言われちゃって。ところがそれから1時間ぐらいしたら、分隊長と班長が来てね。日本は負けて、敗戦になったと。車内で玉音放送も聞きました。雑音だらけで何をしゃべっているかはわかりませんでしたが。それで、千歳には行かないで、青森県の三沢航空隊に行くことになったんです。そこで飲んだり食べたりするだけで数日間過ごしたあと、列車で横須賀に戻りました。その直後、横須賀から厚木基地へ派遣されたものが数名いましたね。厚木でマッカーサーを迎える時の治安要員です。昨日の敵を今日は守るんです。厚木基地では「マッカーサーが厚木に来たら殺してやる」なんて連中もいたらしいけど、結局、何事もなかったですね。

──隊が解散になったのは?

8月31日です。加賀忠さんという海軍でも有名な隊長が最後に挨拶しました。「これから君たちは平和の特攻隊となって、新しい日本を築いてくれ」と。家に着いたら、オヤジは「おお、帰ってきたか」なんて喜んでましたね。息子が特攻隊に入っていたなんて知りませんでしたから。その後も家族に特攻隊の話はしませんでした。

──終戦を知った時、どんな気持ちでしたか?

みんな泣きましたね……。悲しくて泣いたんじゃなくて……なんて言うんだろう、自分たちの思いがここで途絶えたってことでしょうね。とにかく鳥の羽より軽い命だったから。

(2015.9.1 埼玉県さいたま市にて)







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